体験記

クリエイト速読スクール体験記 '02

書ける可能性

濱田 理子・松下電工(株)

 習い事は好きではない。仕事が終わったら、友達との食事やショッピングが楽しいし、家に帰ればテレビやらパソコンやらで、退屈するほど暇でもない。今まで長続きした習い事はひとつもないし、極めたものもひとつもない。どれも、すぐに面倒になり始め、休みがちになってそのうちなんとなくやめてしまう。そしていつのまにか、何かを始めることもやめてしまった。
 その私が、何年かぶりに習い事を始めようと思い立った。やりたいことが見つかった、というわけではない。習いたいことなど何ひとつ思い当たらないけれど、何だっていい、とにかく何かを始めようと思った。失恋の穴埋めのためだ。

 2年ほど前、何の前触れもなく振られたとき、その振られた週の末からすぐさま歯医者通いを始めた。急に空白になってしまった週末の予定を、歯医者の予約で埋めるためだ。中々いい思いつきだった。なんだかんだ、一年近くも通うはめにはなったのは予想外だったが、おかげで、親知らずは全部なくなったし、気にしていながら延ばし延ばしになっていた治療が全部終わった。何しろ寂しいはずの土曜に、毎週必ず、次の予定が入ることは、精神的な健康が保てる感じがした。
 しかし、治療の間だけ痛いのをガマンして、「おだいじにどぅぞ」と会計で声をかけられたら、あとは、ながいながい土曜日のつづきだとすぐに思い知らされてしまった。いいアイデアではあったけれど、とられる時間は短いし、診察中だって思い出さなくていい出来事が頭をよぎるくらいの余裕はある。結局、気持ちが紛れはしなかった。

 そしてまた、失恋をしたのだ。
 今回はうんと自分が困るようなことをしようと決めた。明けても暮れても考えごとをしなくてはならないような目に遭いたかった。そうすればきっと、失恋が気持ちのど真ん中の座を譲るに違いない。
 考えごとを強いられるのは何だろうと思いをめぐらせて、真っ先に浮かんだのは文章だった。メールは好きだが、文章を紡ぐことがいかに時間がかかるか、頭をひねるかは、学生時代の作文と読書感想文とで思い知らされている。週末と言わず、平日も含めた四六時中、文章を書かなくちゃ、書かなくちゃ、という強迫観念に責めたてられてしまえばいいと思った。余計なことなど考える暇がなくなる。少なくとも歯医者より、時間を割かれることだけは、間違いないだろう。この際、うんと追いつめられた方が、私の気持ちも時間も奪ってくれる。

 文演は「習い事」「文章」というサーチエンジンで見つけた。決められた曜日の拘束と、強いられるだろう課題で、自己憐憫のセンチメンタルを塗りつぶそう。こうして私の久々の習い事通いが決まった。

 けれど、思惑通りにはいかなかった。
 文演では、難点のある文章を読んで、その文章を今よりも更によくしていく方法を見つけ出していく。実際に書き始めるよりももっと手前にある、「文章のしつけ」のようなものを教わると思っていい。書け書けと責めたてられる類の教室ではなかった。私の時間は、強迫観念に支配してはもらえなかった。

 予想と違っていたことはもうひとつ起こった。
 取り上げる難点のある文章は、顔も知らない過去の受講生たちが書いたものだ。おそらく自分が書いたとしても、似たり寄ったりかそれ以下の出来なのだろうと思う。現に一読してよくない部分をろくに指摘できない。その文章が、言葉を削る、表現を変える、文の順序を入れ替えると、内容は変わらないままで印象があからさまによくなる。過去の受講生本人が、指摘された点に注意を払って書き直した文章は、同じひとが書いたにもかかわらず、改良品というより新製品に近いできばえだ。注意点を知った私は、自分にだってこの工夫はできるかもと、ずうずうしくも単純に期待がふくらむ。目新しい注意項目がふえるたびに、書けそうな期待感も一緒にふえる。書くことに追いつめられるつもりが、書きたい気持ちに傾いていた。

 どうして私は書かなくなっていたんだろう。いつの間に、書けなくなってしまったんだろう。この講義で使われている、気恥ずかしくなるような文章でさえ、書いたひとは立派だ。自分の意思で書いている。私は今まで、常に「書かされて」きた。書くことに対して抱いていた漠然とした嫌なイメージは、期限ギリギリに友達のを丸写しにしたようなレポートや、あとがきを読んで体裁を整えた感想文の思い出とセットだ。借り物の言葉で要領よくまとめて、締め切りをクリアすることばかり繰り返しているうち、書くことはどんどん億劫になっていった。書きたいことなんて、なくなってしまった。

 よくない例文を次から次へと読み、批評されると、文章の難しさを痛感する。講義では、こう書け、と断定しないこともよくある。松田さんはよく「可能性」という言葉を使った。「ここの部分をもっと詳しく書くと、人物の人間性が広がる可能性がありますよね」と。すると、その可能性のある言葉が見つかるような気がして、自分の中に言葉を探し始める。書ける可能性。読むことが、書くことにつながっていく。書くことが、書かされることから離れていく。批評は、自分自身に向けられたヒントだ。書くときのマナーとヒントを得て、自分の言葉で文章を考えるようになる。

 メールが好きな理由が分かった。書かされていないからだ。伝えたい気持ちが根っこにあるから、自分の言葉を自分の中から探しだす。見つけだした言葉のちからで、考えが伝わる感触を体感できる。時間がかかっても、頭をひねっても、伝えたいことが伝えられれば、書くことは、楽しかったはずだ。文章のしつけは、伝わる言葉、伝わる文を自分の中に探しやすくする。

 文演は、私の時間を塗りつぶしてはくれなかったから、失恋は相変わらず気持ちのど真ん中の座を譲ってはいない。しかし、文章に対する気持ちの再発見がそのまわりを取り囲んで、少しばかり居場所を狭めたようだ。

 今は、書かされる呪縛なしに、書きたいものは何なのかを考えている。もしかすると、この失恋が、書きたいものなのかもしれない。紛らわすのとは別の消化のしかたを見つけられたのだろうか。

 約3ヵ月の短い受講期間、自分に種を撒いたように思う。書いていない今はまだ、育つかどうか分らないが、文章の基本の種だ。これがあれば、いつか、またはいつでも、書き始められるような気がして悪くない。
 得たものは、書けるかもしれない、書いてみたいというワクワク感だ。
 実を言うと、歯医者さえも最後まで通いきらなかった私だが、結局、この習い事を休むことは、一回もなかった。

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客観的な理解

池田 稔・41歳・本田技研工業(株)

●身辺の話

 私は、昨年の9月に東京に転勤してまいりました。 現在は、単身赴任の身の上でありまして、毎週金曜日には約140Kmを新幹線に揺られて、土曜日にサッカー少年達にサッカーを教えるために、浜松の実家に帰るのが週末の楽しみになっているのです。でも、"文演Aクラス"を受けてからは、最終の新幹線には間に合わないため 23時46分発の東海道線(快速)に乗って帰るようになりました。浜松着は、午前3時40分頃で、サッカー教室が9時から始まりますので、結構ハードなのですが自分なりにその生活を楽しんでいました。

 受講のきっかけは、浜松の工場(現場)から東京の本社勤務に変って、自分が文章(文書)に対する理解力がいかに乏しいかを実感したからです。
 工場の中では、いろいろな仕事をこなしてこれたと自負していたのですが、報告をする側から、それを評価する側に変わり、客観的な評価ができない自分に気が付きました。
 今までは、現場で「物(製品)」を確認して、「物」を介して内容を把握することでいろいろと理解ができていました。しかし、「物」のないところで相手の企画書を読んで、その企画書だけで相手の言わんとしていることを理解して、評価をすることができないのです。

 また、「現場」が報告する企画提案の内容を整理して、報告結果を議事録にまとめることにたいして、全くこの議事メモが録れないのです。
 15年以上前に学生を卒業して以来、メモを録るような習慣を身に付けることもせずに過ごしてしまい、学生時代も教科書や参考書を眺めるような勉強しかしてこなかった身の上では、あたり前のことなのでしょうが、どうこの頭を鍛えたらよいのか分かりませんでした。書店で、「受講ノートの録り方」とか「書く技術……」などの図書を探して、読んでいました。
 そんなときに、池袋のJUNKU堂書店の一階で、"クリエイト速読スクール"のパンフレットを見つけ目を通して、"クリエイト"に興味を持ちました。

 自分の偏った? 主観ではなく、客観的な理解ができた上で意見を述べることができるように、たくさんの文章を正確に読む必要があると思い、"速読"に申し込むと同時に、自分の文章表現能力を鍛えるために、"文演Aクラス"に申し込みました。
 言い訳になりますが、申し込みをした直後から、同僚が急遽、海外出張に駆り出されてしまい、仕事の負荷が高くなってしまいました。したがって、"速読"は「集中的に受講しないと、効果が出にくい」と勝手に判断して、同僚が戻る5月下旬まで、間合いをおくことにし、毎週金曜日の"文演Aクラス"にできる限り出席しようとしました。

●実際に受講してみて

 私は、最初の頃、授業で行われた"誰かが書いた文章についての討議"には、全然馴染めませんでした。どうしても、「そんなこと、書いた本人でなければ分からないじゃないか」と思うばかりで、意見が言えませんでした。
 ところが、授業で「要約」をするようになって、松田さんが、「まずは、書いてあることを正確に理解できないとダメなんですよー」とおっしゃって、松田さんみずからがテキストのポイントを要約してみせてくれました。その文章を読んでみると、テキストに書かれた内容が、とてもよく理解できました。何回も聴いているうちに、ポイントがわかるようになってきました。

 これは、今まで主観でしか理解できなかったことが、客観的な観点で理解できるようになってきたのかなあと思っています。特に、宿題の「要約」を自分で書いてみると、より深く理解ができるようになり、あまり時間をかけて書くことはできませんでしたが、本当に有意義でした。

 今は、毎日、朝日新聞の"天声人語"と"社説"を要約して(ただし、時間制限1時間)頭を鍛えています。 現代国語が非常に不得意だったのですが、今になって、どんな文献も客観的な理解ができて、その上に自分の主観が成り立つんじゃないかと思っています。これからも、毎日を有意義に過ごすために、「要約」を続けて行き、早く、"速読"を受講したいと思っています。とても、貴重な出会いができました。ありがとうございました。

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雄弁は銀

男性・23歳・会社員

 沈黙は金、雄弁は銀。古代ギリシャの言葉である。御存知だろうか、古代ギリシャでは金よりも銀の方が価値があったということを。当時、高度な製錬技術が必要な銀は、掘り起こすだけの金よりも高価だったのだそうだ。

 私はこのことを比較的最近になってから知った。今まで私は他人に雄弁に語ることが極端に嫌いだった。そこには様々な理由があるが、大きな理由の一つとして、自分の持っている情報という財産を相手に与えてしまうことが嫌だった、ということがある。だが、自分が他人にその財産を与えようとしたとき、それがとても難しいことだということに気付かされた。自分で十分に理解していないせいもあるだろうが、聞き手は哀しいくらい私の言いたいことを理解してくれない。これでは自分の価値を認めてもらうことが出来ない。
 自分の知識を使ってもらいたい、そして自分を認めてもらいたい。そんな思いで「文章演習講座」の門を叩いた。「表現」することを学んでみたかった。とにかく、自分のアタマの中にあるものをカタチにして、他人に自分を上手く伝えられるようになりたかった。

 講座の中で主に行われるのは「他人の文章の批評」である。文章のなかには、良い文章もあれば悪い文章もある。そのほとんどは非常に個性的な文章で、読んでいてとても面白い。だが、まだまだ未熟な面がある。それを松田さんをはじめとする講座の参加者たちが批評して修正を加えてゆく。次第に文章の中の個性は輝きを増し、内容は変化していないにもかかわらずより完成度の高いものへと洗練されてゆく。私は、文章を学ぶことで自分が磨かれてより強く輝くことが出来るようになるのだということを感じることが出来た。

 また、他人の文章を見ていく中で感じたことがある。講座で使われた文章の多くはとても個性的で、同じ文章は私には書けそうにない。だが逆に、「こんなことまで書いてもいいんだ、書き方次第でこんなに他人に楽しんでもらえるんだ」という気になってくる。今日の仕事のこと・昨日の昼食など、今まであまりにもくだらないと思って書くことはおろか話すことすらしなかったものまでもが頭の中で「文字になりたいよ!」と叫び声をあげるようになり、書くよりも読む方が好きだった私が次第に「文章を書きたい」という欲求に駆られるようになっていった。

 文章演習講座の後半、宿題として講座受講者全員が同じ文章の「要約」を行う。まったく同じ文章の要約であるにもかかわらず、その内容は驚くほどに違う。たんに文章の重要な部分を切り貼りするだけで要約は出来る。そう思っていた私は他の受講者の解答を見たときに驚きを隠せなかった。みな自分の理解したテキストの文章を自分の言葉で的確に分かりやすく表現していたうえ、文章の理解の仕方がまるで違い、同じ文章の要約とは思えないほどに洗練されていたからだ。内容だけをただ分かるようにした自分の要約と比べると、文章から漂う雰囲気や筆者の息遣いまで聞こえてきそうな要約を見せつけられた。文章とは、内容が同じであっても書く人間が違うだけでかくも見事に変わるものなのだということを思い知らされた。

 文章が上手くなったという実感はあまりない。だがこの講座は、私の文章を書くことに対する考えに衝撃的な変化を与えてくれた。そして、多くの文章を見る中で、自分の文章をどのように直すべきか、また、直すことで文章がどれほど大きく変わるかを具体的に知ることが出来た。自分をもっと表現してみたい、あんなふうに表現してみたい、そう思うように、思えるようになってきた。これからは、書いて、書いて書いて書きまくりたい。雄弁は銀、この講座はその製錬法を教えてくれた。

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この文のどこがおかしいの?

男性・35歳・団体職員

〈なぜ文演Aクラスを受けたか〉

 私が文演Aクラスを受けようと思ったのは二つの理由からである。
 一つ目は文章がうまくなりたい。二つ目は早く文章が書けるようになりたいということである。

〈文演を受講して〉

 文演Aクラスは読み手に読まれる文章にするにはどうすればいいのかを基本に進められる。
 そのため、文演Aクラスでは、素人が書いた文章を対象に、まるで司法解剖のようにその文章を分解してパーツ毎に検証していき、その処方箋を作っていく。このように他人の文章の内容を客観的に詳細にみていくということは、私自身は体験したことがなかったので新鮮であった。

 正直にいうと、あまり予習といったものはしなかった。せいぜい文演のため池袋へ行く電車の中で検討の対象となる文章をパラパラと見る程度であったので、その検討の対象となる文章について「どこがおかしいの?」というのが率直な感想であった。
 しかし、いざ文演でその文章を俎上に載せると、問題点が「でるわ、でるわ」で、あらためて、自分の文章を見る目が貧弱であることを痛感させられた。

 この文演Aクラスでは上述のように実際に書くということはあまりしなかった。あくまでも他人の文章を見てどう直していけばよいのかを講義してくれるというものであるので、どこまで力がついたのかは不明であるが、文章を見る目というものは向上したと思う。
 ただ、自動車工学をいくら勉強しても、実際の運転が上手くなるのかと言えば、決してそのようなことはないのと同じように、実際にその知識を実践していかないと上達は難しい。したがって、知識を実践力に反映していくという点からも次のステップであるBクラスというものを受けた方がよいのかもしれない。

〈その他要望〉

 文演Aクラスでも実践の場つまり実際に「書いてみる」という講義を増やしてもらいたい。このクラスで唯一「書いてみる」ということがあるのは「要約」の1回だけあるので、こういった機会をもう少し増やしてもらいたい。
 なぜなら、この「要約」の実践講義はとても勉強になり、会社の仕事でも役立っているからである。
 次に文演Bクラスを日曜日以外にしてもらいたい。家族持ちには日曜日のしかも夜というのは酷である(このクラスを受けてみたいのでぜひ検討してください)。

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文章演習Aクラスを受けて

男性・28歳・団体職員

 私は、元来が国語を苦手としてきました。高等学校の時、国語を避けるように理系を選択しました。当然、文章を書くことも苦手で好き好んですることは、ありませんでした。しかし、こうして文章を書いているのも、文章演習Aクラスを受けたからです。

 講座では、講師が過去の受講生たちの誤った文章を添削して述べていくものであります。問題作となった筆者たちにとっては、不名誉なことだと思います。しかし、文が訂正されて一つひとつの活字が生かされて文章となっていく様を見ている私たちにとっては、勉強になる立派な教材になっていました。一方、名誉を守るために、本人の書き直しによる文章も発表されました。読んだときには、前回とは違って読みやすく言いたいことが伝わるものに変わっていました。努力次第では、うまく書けなかった人でもうまく書けるよるになることを証明するものでした。私にも、できると感じていき、毎週、楽しく通学することができました。うまく説明できませんが、国語の授業にはないものがあることを感じました。

 他には、文章を「要約」することをします。要約とは、文章などの大要をとりまとめて、短く表現することを意味します。先ず、書く作業の前に筆者の考えを読み取ることをしなければなりません。簡単には、作成できませんが、読みこむことと書くことを同時に訓練できるお得な方法だと思いました。

 なぜ、速読スクールに文章講座があるのかと疑問を感じていましたが、正確に読む能力があってこそ書く能力が備わることだと思いました。読むことが楽しくなれば、書くことも楽しくなることに気付かされました。
 今まで、文章を書くことの難しさしか考えていませんでしたが、楽しさもあることを知って、文章演習Aクラスを受けて良かったと思いました。

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なぜこの言葉なのか

女性・会社員

 幼い頃からとにかく本が好きでした。どこへ行くにも、その時のお気に入りの本を持って歩いていたように思います。本の中に詰まっている、未知の世界とか、可能性とか、作者の思い、そういう色々なものを含んでいる本という存在に惹かれていました。
 そしていつの頃からか私の読書の中で、特に心に残った言葉を一冊のノートに書き留めるのが一つの趣味になっていました。いろいろな作家や評論家の言葉を集めたそのノートは私の今までの人生の中で大きな力になったと思っています。時には心をなぐさめたり、自分の行動の修正をはかったり、言葉や文章の持つ力というものが、私に様々なものを与えてきました。

 クリエイトに来た理由といえば、ふとこんなに好きな本なのに今のペースで本を読んでいると、人生の中で読める本の数は限られてしまう、少しでも多くの本を読んでみたい、そう思ってクリエイトに通うことにしました。
 そこで出会ったのがこの「文章演習講座」でした。松田さんの「文章の違う世界が広がりますよ」という言葉に誘われて受けてみることにしました。ただ言葉が好きで言葉の持つ力に魅力を感じていて、自分で文章を書くなんて考えてもいなかった私でした。

 Aクラスの授業の中では、自分で文章を書くことはほとんどなく、毎回いくつかの作品を読んでその文の悪い所をあげる、なぜ悪いかを考えるということをしました。そのような考える訓練を通じて、名文と呼ばれるものが作者の考えつくした努力の結果出てくるもので、その裏では、緻密でしたたかな配慮と計算があるものなのだなと思えてきました。普通に本を読む時でもなぜこの順に書いたのか、なぜこの言葉なのか、そこにも作者の考えがあるのだろうなと思い至るようになりました。

 授業の中で文章を要約するという作業をしました。要約するということがいかに正確にその文章を理解していないと出来ないものであるか、また、長い文を正確な意味をとって短い文章にまとめて行くというのは、言葉パズルをしているようなふだん使わない脳を使った作業でした。

 「文章演習」を受けて、文章を読むとき、ただ読み手としてだけでなく書く側としての考えや思いを想像するようになり、違う方向からの視点を持てるようになりました。

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国語の授業のかわりに

第120回文學界新人賞受賞 加藤 秀行・19歳・東京大学教養学部文科Ⅱ類

 ものを書く、ということは子供のころから苦手だった。
 運動会の感想を書きなさい、と手渡された作文用紙。この紙をなんとかしなきゃ、とものすごくあせる。とりあえず小学生の僕は当日の朝の様子を書き出してみる。「朝、起きたらすごく晴れていて、ぼくはとてもよかったとおもいました」とてもよかったかどうかは別にどうでもいいや。つまりは紙がうまるかどうかだ。終わりはどうしよう。まあいいや、「運動会はとてもたのしかったです」うん、いいかんじだ。 どこかで見たことあるし、これでよさそうだ。

 弾き方を教えずにピアノを自由に弾きなさい、とは誰も言わない。そこには姿勢から始まり、手の置き方、動かし方、名曲の反復練習までありとあらゆる型にはまったピアノの演奏の練習がある。その上で初めて自己表現が成り立つ。「文章だって全く同じはず。なのに文章だけはなぜか最初から自由に書きなさい、と言われる。おかしな話ですよね」そう言われたときに、僕はすべてを納得した。

 才能がなかったわけじゃないのか。もしかしたら自分には文章を書く才能が他の人よりないのかもしれない、と悩んでいた時間を悔しく思った。

 文章の書き方を習えば、これまた出るわ出るわ。今までもやもやしていた、「文の書き方」を松田さんは一瞬でクリアにしていく。これほど知的に楽しい授業を、僕は他に受けたことはない。
 書き方とはつまり、読み方である。講座を受講した後、小林秀雄の「人形」を読んだ。書く作業の困難さを知っているからこそ、その文のあまりの無駄のなさにただ、驚くだけだった。国語の授業のかわりに「文演」を一律に中高生に教えたら、どれほどの文学者が出るのだろう、とも思った。

 この講座を受けて、文章への印象がガラリと変わった。書くことだけでなく、読むことにも一本、自分の中に太い幹ができた。折れ曲がることなく、これからさらにスクスクと成長していくと思う。いや、必ずさせる。いつかいっぱしの物書きになれたとき、執筆のきっかけは? と聞かれたら「クリエイト速読スクールの文章演習講座を受けた時からですかね」と大きな声で宣伝したいと思う。え、文演の感想ですか? そうですね、「文演はとてもたのしかったです」。

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Aクラス受講体験記

橋本 浩実・39歳・会社員

 文章演習講座(以下、文演と呼ぶ)は現代の『綴方の時間』である。『綴方の時間』とは、戦前までの教育に存在した、文章を書く技術を習得させるための教科である。
 私は、かつて、文章力は、読書量を単純に増やすこと、新聞の社説などを要約することによって徐々に身につくものだと漠然と考えていた。しかし、アメリカやイギリスでは、文章の読み方と書き方は自然に身につくものではなく、技術として『綴方の時間』に習得するものだと考えられていたことを、文演Aの副読本を読んではじめて知り、目から鱗が落ちる思いであった。

 そんな私が文演Aを受講した理由は、会社でのビジネス文書の読み書きを効率化したいと思ったからである。一日に約四十通も届く電子メールの処理、あるいは部下の報告書のチェックや添削などに毎日かなりの時間を割いている。これらを少しでも早く処理したいのと、自分の添削のやり方が正しいのかどうかを確かめたいと思ったからだ。
 文演Aの授業内容は、過去の受講生が作成した文章を、クラス内で徹底的に批評し合うことによって、文章修業中に犯しやすい過ちのパターンを繰り返し繰り返し学習するというものである。この学習によって、文章を書くための基本的な作法が身につき、文章に対する評価の目を養うことができる。文章に対する評価の目とは、文章を点検し推敲するセンスと言い換えてもよい。

 では、なぜ他人の文章をクラス内で批評し合うことが、文章に対する正しい評価の目を持つことに繋がるのであろうか。個人的には、それは次のような理由によるものと考える。
 自分の文章を自分自身で推敲すると、文章に悪癖があっても、自分の癖であるがゆえに、読んでもそれほど違和感なく理解できてしまうため、自分の悪癖を発見することは容易ではない。同様の理由で、他人の文章であっても、文章に自分と同じ悪癖がある場合は、それを発見することは容易ではないと考える。

 従って、文章修業中の初心者が、文章を推敲しながら書くことの基本を学ぶためには、使用する題材が自分の文章だとか他人の文章だとかといったことはあまり重要な問題ではなく、自分とは違った評価の目を持つ第三者の批評に接するということが重要なのである。そういう環境があってはじめて、自分の悪癖に気づくことができ、第三者の視線で文書を正しく批判し、評価できる目を育てられるようになのるだと思う。

 文演Aの授業中に、しばしば、他人の文章への批評が、あたかも自分に対する批評であるかのような錯覚に捕らわれることがある。これも、今述べてきたように、クラス内の第三者に指摘されてはじめて、自分の悪癖に気づかされたということではないのかと、一人考えるのである。

 文演A受講後の感想は、受講前の私と同等レベルの迷文を書いていた過去の受講生が、受講回数を重ねる毎に、本当に同一人物の文章なのかと疑うほどうまい文章を書けるようになる様子を目の当たりにし、こんなにうまくなれるのなら、どんなに厳しく批評されても、自分も本格的に文章を書いてみたいという強い衝動に駆られるようになったことである。

 また、その反面で、文章を書くことはかくも厳しいことなのかと思わせられた。というのは、常に読者からの厳しい目に曝されるため、表現や構成に細心の気を配り、一字一句も、おろそかにできないのが文章を書くということだと、文演Aを通じて知ったからだ。
 最後に、おまけの情報として、「要約」の授業での失敗談について書いてみたい。その授業は、受講生の全員が副読本の一部の章の要約をまとめてきて、松田先生に講評していただくという講義であった。

 その日、私は、自分の要約に対する松田先生の講評を楽しみに出席したのだが、はじめて書いた私の文章らしきものに対する先生の第一声は「文章と文書を使い分けているのか、ワープロの変換ミスか。これだけ何度も出現するということは確信犯ですね」であった。
 なんと、重要キーワードのところで何度もワープロ変換ミスをしでかし、再三に渡って誤字をおかしていたのだ。いつも部下に「誤字なんていうものは一度でも読み直していれば避けられるミスだ。こういうミスというのは単にダラシが無いのだ」などと注意してきた自分が、なんたることだろうか。何度か読み直したハズなのに。文章の構成だとか表現の講評以前の話であった。恥ずかしさのあまりに、私への、その他の講評ついてほとんど覚えていないほどであった。

 たとえて言えば、畳の上で水泳のクロール泳法を習った初心者が、鬼コーチから、プールで実際に泳いだ時の水のかき方やドルフィンキックなどのフォームを、初めてチェックしてもらえるという日に、25メートルプールをやっとの思いで泳ぎきって、何を言われるかと、ワクワクしながら水から頭を上げてみたら、そのコーチから、「ひもが緩んで、水泳パンツが、途中で脱げているぞ」と指摘されたような恥ずかしさであった。穴があったら入りたいとはこのことである。ショックのあまり、しばらくは落ち込んでいた。

 ようやく、帰宅の電車に乗る頃になって立ち直り、次のような訳の判らないことをブツブツつぶやいては、自分を慰めていた。
 「背泳ぎの時でなくて良かった……」

 文演Aを通じて基本的な文章作法を身につけたつもりであったが、頭で解っていることを確実に実践することの難しさを改めて思い知る結果となった。この借りを返すためにも、引き続き文演Bも受講して、本格的に文章を書き、受講生間の厳しい批評を受けながら、より良い文章に仕上げていくトレーニングを積むべきであろうと考える今日この頃である。

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動機と感想

谷川 光喜・32歳・SE

<前置き>

 自由業者は、会社と契約が終了してから他の会社と契約を始めるまでの間に仕事をしていない期間、いわゆる契約の切れ目ができることがあります。この切れ目を意図的に作ることで勤め人がうらやむような長期休暇を取ることができます。過去の切れ目の期間にはアメリカに渡り、スペイン語で4まで数えるのがやっとの状態にもかかわらずメキシコヘ入国、度胸とボディランゲージと筆談とで、3週間後なんとか無事に再びアメリカの地を踏むことができました。警官に恐喝された夜のメキシコシティ、カリブ海の白い砂と透き通った水に旅の疲れも吹き飛んだトウールム、雨に濡れた遺跡が絵になるバレンケ等々、思い出は尽きません。

 2000年7月も切れ目の期間でした。何か変わったこと、まだ体力のあるうちにしかできないことをしてみたいな、と漠然と思っていました。そんな折、メキシコを旅行中に他の旅人から、マヤ道を歩いてペルーのマチュピチュ遺跡へ行く現地のツアーがあるよと教えてもらったことを思い出しました。自力での旅としてはお買い物用自転車で紀伊半島を一周したことくらいで、歩く旅は経験がありませんでした。よし、今回は歩く旅にしよう。そう思い立つと心の中にはフオルクローレ音楽が流れていました。

 それがどういう経緯で四国八十八カ所札所巡りの旅になってしまったのか、既に記憶が定かではありません。記憶の糸をたどると、当時交際していた彼女が行きたい所に一人で行くと後々何を言われるか分かったものではないため、歩いて旅ができる所を探した気もします。

 前置きが長くて申し訳ありません。1300kmとも1400kmともいわれている四国八十八カ所札所巡り37日間の徒歩旅行の記録を書いてみようと思ったのです。しかし、 筆が走った後には、ただただ事実だけが羅列されているばかりで、読み返してみても無味乾燥で面白くありませんでした。情けないことに、自分の思いや感想が表現をどのように盛り込んでいけば面白くなるのか見当がつかなかったのです。そんな折、クリエイトで文章演習の受講生を募集しているのを知り、参加することにしたのです。

<演習の感想>

 文章演習講座Aクラスを料理評論に喩えてみると、自分では料理を作らず、他人の料理をあれこれ食べて、素材の味が活きていない、もっと塩味が欲しい、この隠し味は効いている等々、意見を述べる場です。それを通じて自分が料理する際に心がけることが学べます。

 受講時には、他の受講者の意見になるほどそんな視点があったかと感じたり、なんだか違和感があるけれど、どこが問題なのか意見が出せない文から問題点を明確に抜き出して解説される松田さんの意見に膝を打ったりと、毎回何かしら新しい発見があり、次回にはどんな発見があるのかと思うと毎週金曜日が楽しみでした。特に、何の問題点があるのかさっぱり見当がつかない文の解説は、目からウロコが落ちるとはこんな時に使う表現なのだろうと実感しました。

 今までは書店に並んでいる文章の書き方といった類の図書を読んでも、なぜそうする方が良いのかをうまく読み取れませんでした。しかし受講を始めてから納得できる部分が増えてきました。私の読解能力が低かっただけかもしれませんが、この演習で少しは高まったようです。

 反面、文を書くのが怖くもなりました。他人の料理に触れ、今まで自分はまずい料理を平気な顔で出していたことに気づき、料理の自信がなくなってしまったためです。

<要約の感想>

 「要約」は生け花や風景写真のようなものでしようか。大切な部分を残し、いらない部分は思い切って捨てる。この取捨選択の判断といいますか、センスといいますか、その基準が自分の中である程度鍛えられたことが大きな収穫でした。特に「捨てる」という点は大変役立っています。

 身近なところでは新聞のスクラップがあります。ついつい溜め込んでしまい、結局整理できずに捨ててしまうことが度々でした。それが最近では興味のある記事を要約しながらパソコンにデータとして保存するようになりました。
 また仕事上で文を元に図解資料を作る際、どの言葉をどう図に取り入れて構成しいけばよいかの判断が速くなりました。以前はどれも捨てられず、A4サイズ1枚に雑然とした情報があふれていましたが、かなり整然と整えられるようになってきたように感じます。

 冒頭に書きました体験談が面白くない理由も、情報の取捨選択の基準があいまいであり、文を書く際に材料をありったけ使っていたからでしょう。そのために事実がただただ羅列されるだけのつまらない文になっていたのだと思います。自己分析が正しいかは別として、どう書けばいいのか見当がつかなかったときよりは確実に何かを体得できたと感じております。

<最後に>

 四国八十八カ所札所巡り37日間の徒歩旅行の記録はいつ書くんだ、とか、メキシコの思い出をもっと読ませろ、とか、はたまた彼女とはどうなった、とか、お尋ねしたいこともいろいろありますでしょう。そのあたりは文章演習Bクラスに参加して書くか、ホームページを作成して公表するか、はたまた心の奥底に秘めておくか、思案中であります。

※用語
一般的でないかもしれない言葉を、私の記憶より解説します。

  • スペイン語
    アメリカ以南の国は、べリーズ(英語)とブラジル(ポルトガル語)を除いてはスペイン語が使われています。参考までに、ロスアンゼルスやサンフランシスコという地名もスペイン語です。ロスアンゼルスとその近郊では接客業に従事している人の多くがメキシコ人でした。そういう人にスペイン語で話すと笑顔になります。
  • マヤ道
    マヤ人が使っていたといわれる道。どこからどこまで続いているのかは、いまのところ分からないそうです。
  • トウールム
    カリブ海に面した遺跡で有名な村。メキシコ有数のリゾート地カンクンよりバス約3時間。
  • バレンケ
    あまり治安のよくない所にある、遺跡で有名な村。かなり不便なところにあり、ここに行くバスはかなり揺れる。
  • マチュピチュ
    空中都市と呼ばれる遺跡。遠からず行ってみたいところである。
  • フオルクローレ
    南米の民俗音楽を日本ではこう呼んでいる。サイモンとガーファンクルの「コンドルは飛んでゆく」は代表的なフオルクローレである。ちなみに、私の頭に流れた曲は「花祭り」だったと思う。

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2002年速読体験記 合格できる環境 ---平成13年司法試験合格---

廣瀬 太亮 

1 出会いは偶然に

 やっぱりない。目の前が真っ暗になった。
 98年択一試験の合格発表、それまで合格してきた択一に落ちてしまったときのことだ。どうしよう。もう今年の司法試験は終わってしまったのか。
 呆然として合格発表会場を出る。待ち受けるのは予備校の嵐のようなパンフレット攻勢。ぼ一っとしたまま差し出した手に次々と積まれていくパンフレット……。
 そのまま帰宅。気持ちの整理がつかないまま、山のようなパンフレットを整理。そのとき、クリエイト速読スクールのパンフレットが紛れ込んでいるのに気づいた。
 あれ? こんなものもらったっけ?
 次の瞬間には吸い寄せられるようにそれを手にとっていた。「速読」と聞いて、心にひっかかるものがあったのだ。中身を読んでいくうち、私は完全に我に返っていた。

 択一不合格の最大の原因は、論文の勉強に時間を割きすぎて択一の勉強がおろそかになったことにあった。しかしそれだけだろうか?
 私は薄々気付いていた。択一の問題、特に長文、並べ替え問題を解くのが遅くなっていたことに。おかしいなとは思いつつも、それでもなんとかなるだろう、とタカをくくっていた。もし速く読めたら、択一に落ちることはなかったかも……。とりあえずクリエイトに行ってみることにした。

2 あやしい所じゃなさそうだ

 池袋一の繁華街、サンシャイン60通りの一角にある、小さなビル。
 こんなところに本当に学校があるのか? 逡巡していると、背後から声をかけられた。代表者の松田さんだった。温かく迎え入れられ、説明を聞き、体験レッスンを受けた。
 「速読」と聞くと、マユツバな印象を受ける方もいるだろう。私もそうだった。速読、それは分厚い本のページをペラペラとめくっただけで、その内容を立て板に水と述べる芸当。いかさまでは? 特別な素質がいるのでは? 本当に訓練すればできるのか? コンピューターでへんてこな画像を延々と見せて、頭が良くなったつもりにさせてハイ終わり、そして金だけはしっかりふんだくる、などというのではなかろうな?

 私の偏見は先生の説明を聞いて半分消え、体験レッスンを受けて全部消えた。
 速読に必要なのは、広い視野をもつこと、そして素早く理解する理解力と集中力をつけること。確かに理にかなっているし、司法試験にも役に立ちそうだ。まずは現在の三倍速で読めることが目標。現実的だ。受講料も安い。良心的だ。
 教室には小学生から主婦まで様々な人がつめかけ、和やかなムード。予備校の自習室のギスギスした空気ばかり吸ってきた私には、心が休まる。トレーニングではコンピューターなどのハイテク機器はいっさい使わない。地味だが安心感がある。そのくせトレーニング法は非常にユニークだ。

 体験レッスンでは、私の現在の読書速度も測定した。私の記録は1分間に500字。他の人の入会時の記録は平均700字というから、これは絶望的な数値だ。
 どうやら択一に落ちた原因がはっきりわかった。法律の文章というのは難解なので、しっかり理解しようとついつい慎重に読みがちになる。その結果私は、本をゆっくり読む癖がついてしまっていた。しかも、今読んだところを覚えていないのでは、という強迫観念にかられ、繰り返し読む癖までついている有り様。これでは勉強の効率も上がらず、計画通りに進まない。イライラが募り、ストレスも溜まる。するとますます読むのが遅くなる。この悪循環を断ち切るにはここに通うしかない。私は入会を決めた。

3 司法試験の勉強もこんな感じなら……

 トレーニングの詳しい内容については、パンフレット等に譲りたい。とにかくとてもよく考えられている。私はすっかりはまり込んでしまった。
 出口の見えない司法試験の勉強に比べ、速読のトレーニングは回を追うごとに成果が目に見えるので、楽しくて、うれしい。やる気も出る。
 「かな拾いテスト」「イメージ記憶」「スピードチェック」等の成績は最初から急速に伸びた。どうやらその気になればかなりの集中力を発揮できるようだ。
 一方で、なかなか伸びないものもあった。「イメージ読み」「たて一行ユニット」等である。なぜ伸びないのか? 先生方は私の質問にいつでも乗ってくださり、トレーニングに取り組む姿勢やコツについて、丁寧にアドバイスしてくださった。

 その時繰り返し言われたのが、「肩の力を抜いてリラックスして行なうこと」「完全にできなくても気にしないこと」、だった。はじめはその意味がよく分からなかったが、「倍速読書訓練」をしていくうちに分かってきた。完璧に覚えようと時間をかけることは、かえって読書のリズムを崩すことになるのだ。このことは、私の試験勉強に対する姿勢にある種の意識革命をもたらすことになった。
 トレーニングの成績が上がっていくと、先生が誉めてくださる。これは実は大事なことだ。司法試験受験生は、どんなに努力しても受からない限り誰も評価してくれない。これは精神的につらい。ある意味誉められることに飢えているのだ。誉められる等の先生方とのコミュニケーションを通じて、私が精神的な安定を得ていたことは否定できない。
 そうこうしているうちに、私はいつのまにか、比較的じっくりとした読み方でも1800字を読めるようになっていた。

4 現実に戻ろう

 速読のトレーニングにはまってみたところで、私の本来の目標は司法試験合格。いくら速く読めてみても、勉強に役立たなければ意味がない。というわけで、私はクリエイトで教わったことを日常の試験勉強にも活かそうとした。
 勉強の合間に雑誌を読むときも、意識的に速読するよう心がけるなど、自主的にトレーニングをした。休憩中も、教わった「カウント呼吸」をして、頭をリフレッシュしていた。
 「カウント呼吸法」というのは、トレーニング開始前に精神集中のために行なう腹式呼吸のようなものだが、これがなかなかスグレモノである。それまでの私ときたら、勉強の成果はその日の調子によって大きく左右されていた。「ああ、今日は調子が悪いな」と思うと気力が続かず、ほとんど何もできないまま一日を終わる、ということも少なくなかった。しかしこれを行なうようになってからは、調子が悪くても自分で意識的に集中力を高めて、そこそこの成果を残せるようになった。
 本試験の時にも重宝していた。択一試験の時は、一科目終えるごとにカウント呼吸をして集中力を切らさないようにしていたし、論文、口述においても試験開始前に行なって、頭を磨ぎ澄ませていたのだ。

5 おかげで……

 私はクリエイトに通い始めた後は、一度も択一に落ちることなく、今年最終合格を果たすことができた。私が思うに、速読の効果が顕著に試験の成績に反映するのは択一の時である。解くのが速くなったし、途中で集中力が切れて誤答が続くようなこともなくなった。
 それじゃあ、論文、口述や、その他の勉強には役に立たないのか、といわれると、そうでもない。確かに、いくら速読ができても、難解な法律の文章を読むときはゆっくりにならざるを得ない。私も、初読の法律書は、せいぜい今までの2、3倍の速さで読むのがいいところだ。
 しかし、以前何度も読んだ本を読み返す段になると、話は違ってくる。論文直前期の見直しでは、総計800ページある刑法の参考書を3日で読めた。それも、必要な部分をピックアップし、論証を丁寧に書き写すという作業をしながら、である。ひどいときは一日2、30ページしか読めなかった以前からは考えられない進歩だ。

6 活用上の注意

 クリエイトに通うことによって、確かに相当な効果は得られる。しかし、一つ受け方を間違えると効果は半減し、司法試験受験生にとって、メリットよりも貴重な時間を奪われるデメリットがうまれかねない。ではどうすれば最大限の効果が得られるのか。私が通っているうちに感じたことを述べたいと思う。

① 他力本願はダメ

 クリエイトに行きさえすれば速く読めるようになり合格できる、といった受け身な気持ちでは十分な効果は得られないと思う。当然のことながら、速読の訓練と試験勉強は別ものだし、かく言う私もクリエイトに通い始めて翌年即合格、というわけにはいかなかった。速く読めるようになりたい、集中力を高めたい、といった具体的欲求と、それを試験にどういかすかという目的意識をもつことが重要であろう。クリエイトで学ぶことができるのは、いわば勉強しやすいコンディションの作り方である。そこから先は一人ひとりが努力しなければならない領域だろう。

② 焦らない、他人と比べない

 大学入試はもちろん、高校、中学入試まで熾烈を極める今日、そんな環境に育ってきて、今また司法試験に挑もうという受験生たちには、多かれ少なかれ競争意識が染みついている。そのため、速読を学ぶにあたっても、「この俺が子供や主婦に負けるわけにはいかない」と力が入りまくったり、早い成果を求めたりしがちだが、これではかえって伸び悩んでしまうだろう。
 速読のトレーニングは「試験」ではない。「倍速読書訓練」でも、法律とまるで関係ない本を読める。しかも、「試験に役立てる」という大義名分がある以上、勉強をさぼっている、という罪悪感にさいなまれずにすむ。クリエイトで過ごす時間は、いわば気迷いせずに司法試験から離れられる、大変貴重なものなのだ。楽な気持ちで、気分転換のつもりで受ければ良い。

 このように書くと、なんだか①で書いたことと矛盾しているのではないか? と思われるかも知れないが、そうではない。これらは両立できる。むしろ、両立させることこそがこのトレーニングの狙いであり、そうして身に付けることができる「集中しながらも肩の力を抜く」という姿勢は、普段の勉強にとっても極めて有益であると思う。

7 最後に

 本の読み方をはじめとして、私の勉強方法を徹底的に改めさせたクリエイトのトレーニング。そして、先生方には心から感謝するばかりである。
 近年、資格試験の受験者は増える一方であるが、その陰では、以前の私のようになかなか目的を果たせずに苦しんでいる人々が大勢いることだろう。それらの方々がクリエイトと出会うことによって、なんらかの「合格するきっかけ」をつかむことを願ってやまない。

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2002年速読&文演体験記 英検一級合格と速読・文演 --平成12年第2回英検一級合格 --

三上 直哉

1 6回連続一次不合格

 外資系メーカーに転職してから仕事で英語を使う機会が多くなった。親会社への報告や外国人社員との会議はすべて英語だ。仕事で必要なため英語学校に通いだしたが、二年くらい通ううちに、英語の資格試験に挑戦しようと考え始めた。どうせ英語を使うなら、何か形に残るものが欲しくなったからだ。さて、同じ資格ならば難しいほどやりがいも世間的な価値もあると思い、英検一級に挑戦し始めた。

 しかし、数ある英語の資格試験のなかでも最難関なだけあって、なかなかむずかしい。英語学校に通った以外に、英検対策用の参考書や問題集を読んだり、英単語を覚えたり、英字新聞を購読したり、ラジオ講座を聴いたり、英会話のCDやカセットテープを聴いたり、といろいろ試みたがなかなか合格できない。 結局、6回続けて一次試験で不合格になった。とくに一次合格ラインまであと数点届かなかったことが3回続き、英検の受験勉強にマンネリを感じてきた。何か合格に役立ちそうな情報はないかな、と情報誌を買い求め、何気なく読んでいると、クリエイトの広告が目についた。
 「速読教室か。おもしろそうだなあ」

2 中身の濃い合格体験記

 クリエイトは英語学校ではなく、受験機関でもないが、司法試験や税理士、不動産鑑定士などの国家試験で合格者を輩出していた。彼らの中身の濃い合格体験記を読んでいる内に興味がわいてきた。英検一級も受かるかもしれない、と思えてきた。しかし、やろうという決心がつかない。広告を読むと、無料体験レッスンをやっているではないか。人生一度きりだ。いろいろ経験してみるのもいいじゃないか。つまらなかったらやめればいいのだから、と無料講座を申し込んだ。半信半疑で出席してみたら、意外におもしろい。数種類のトレーニングをゲーム感覚で受けた。初めてでもけっこうできるものだな、いや、まだまだできそう。自分の実力はこんなもんじゃないよ。結局その場で受講を決めた。

 受講の日時は、祝祭日と振替休日以外ならば予約不要でいつでも大丈夫、という融通が利くのも、忙しい私には都合がよかった。土曜日、日曜日は朝10時から開講しているのもうれしい。私の場合、授業料を払ったものの、ほとんど出席できず、結局お金をドブに捨てた、ということがない。実際、クリエイトでも申し込んだ回数をすべて受講することができた。ささやかな達成感。クリエイトは通勤途中の池袋にあり、駅から近くて通いやすいのもよかった。

3 最終合格

 入学してからクリエイトのトレーニングを受講し、英検一級の一次試験、二次試験と合格し、念願を果たした。足掛け四年かかったが、受験勉強の途中で偶然クリエイトを知ったわけである。クリエイトでは試験合格に必要な知識やこつを学んだわけではない。しかし、試験合格の基礎となるであろう記憶力や論理的思考力を得ることができた。得られた力を試験で試してみようと前向きな姿勢で勉強に取り組むことができたのもよかった。ではどんなことを学んだのか、以下に述べる。

4 速読訓練

 速読教室では単に文章を速く読むだけだと思っていた。しかし受講してみて感心した点が二つある。一つは、読んだ内容を記憶する訓練も行っていることだ。速く読みました、でも内容は覚えていません、では意味がない。種々のトレーニングを実施しているが、その一つに、短時間で数十個の単語を覚え、記録用紙に書き出す訓練がある。記憶力の悪い私はついていけるか不安だった。しかし、他人と競争するわけではないのでリラックスして取り組むことができた。これらのトレーニングは、英語の難解な長文を速く読んだり、英単語を短期間に数多く暗記したりするのに役立った。以前は苦痛だったこれらの勉強が、クリエイトに入学してからは成果を試す機会となった。

 速読教室で感心したもう一つの点が、論理的思考力を養うトレーニングを行っていることだ。限られた時間で数十問の設問を解くわけだが、正答数と正答率を上げるには正解をきわめて短時間で選ぶ論理的思考力を要する。本を速く読めるようになるだけ、と思っていたのでこのトレーニングは新鮮だった。英検一級の二次試験ではスピーチと質疑応答があり、試験に受かるには試験官を納得させる論理的なスピーチ、論理的な受け答えが必要となる。もともと論理的思考は苦手だったが、クリエイトでトレーニングを何度も受けたのだから、昔に比べてよくなっているはずだ、と自信を持つことができた。

 なお、トレーニングは多くの種類があり、日替わりで飽きることがない。これなら長く続けられる。さらに、生徒一人ひとりのファイルを作り、以前トライした記憶訓練関係のトレーニングを再び受けないよう講師が気を配っているのも、生徒への心遣いが感じられてよかった。

5 文章演習講座Aクラス

 速読教室に通っているうちに、文章演習講座の案内を受けた。仕事は多忙であったが、もともと文章を書くことには興味があった。話し言葉と違って、書いた文章は後に残る。文章を書くことで、自分の考え方が論理的かどうかを客観的に把握できるのではないか、と思い、速読教室に続いて本講座も受講することにした。

 文章演習講座Aクラスでは、おもにわかりにくい文章、いわゆる悪文を読んで、生徒が感想を述べる。自分で文章を書いて授業に持ってくる必要はない。だからリラックスして受講することができる。もちろん、松田先生は生徒が文章を書いてくるのを大歓迎してくれる。
 さて、私は文章演習講座Aクラスで松田先生から次の二つを学んだ。

 一つは、悪文がなぜ悪文であるかだ。何か変だな、つまらないな、何となくしっくり来ない、理解しにくい文章だな、と思うが、どこがどう悪いのかうまく説明できない。まるで歯の奥に食べかすが詰まったようだ。そのもどかしさを松田先生がわかりやすく説明してくれる。なるほど、そういうことか、と授業中に何度も感心した。文章を書くことは簡単そうにみえて、実はとても難しいことがよくわかった。

 もう一つは書く人の個性が大切であることだ。大上段に振りかざして、新聞や雑誌に語り尽くされたことを書く必要はない。あなたの視点で、あなた自身が感じたことを書けばいいのだ、と教えてくれた。そうか、そうなんだ。自分の生活の中で起こったできごとや、それに対する自分の考えは自分にしか書けないはず。それならば書いてみたい、と思い始めた。

6 文章演習講座Bクラス

 文章演習講座Aクラスを修了後、文章演習講座Bクラスに進んだ。実際に文章を書いているが、その難しさを実感している。Aクラスで多くの「悪文」を読んで学んだこと、一人よがりの主張になっていないだろうか、回りくどい表現になっていないだろうか、だらだらと長い文章になっていないだろうか、と気になるのだ。しかし、それ以上に自分自身を表現することに喜びを覚えている。自分の生活の一場面を文章にしてみる。伝えたいことを他人にわかりやすく表現しているだろうか。うーん、むずかしい。パソコンに向かい、ワープロソフトで何度も書き直しをする。印刷して読んでみる。赤ペンで推敲する。もうこれ以上、自分では直しようがない。これが自分の限界だ。あとはBクラスで検討してもらおう、と松田先生に原稿を提出する。

 文章演習講座Bクラスでは書いてきた文章を作者自ら朗読する。それに続いて皆で文章の検討を始める。生徒一人ひとりが意見を述べるのだ。聞いているときは気恥ずかしいが、鋭い指摘を受けて、なるほど、と思うこともある。仕事のひとこまを文章にし、「ある会議のときである」と書いたら、さっそく、『どんな会議だったのですか』、と質問された。何気なく使った「会議」という表現が、漠然としているので文章の内容についてイメージがわかない、と言うのだ。なるほど、知らずしらずに一人よがりになっていたな、と反省する。

 生徒に続いて松田先生から講評をいただく。これが鋭い。文章表現、文章全体の構成、矛盾点、余分な記述など、なるほど、と思うことを次々に指摘してくれる。英検一級の合格と、会社の同僚の山登りについて書いた文章を提出し、授業で読んだときのことだ。生徒がひととおり意見を述べた後、松田先生との質疑応答が始まった。
 「三上さん、ちょっとこの文章の結論、わかりにくいんですよね。なんでですかね?」
 うーん、そう聞かれてもねえ。自分でもある種の違和感を感じていたが、どうすればよいのかわからなかった。沈黙していたら先生がホワイトボードに文章の構成図をさらさらと書き始めた。
 「この文章は、英検一級の合格と、会社の同僚の山登りが並べて書かれているんですよね」
 「はい、そうです」
 「ただ、その2つが、どうつながるのかが読者にわかりにくいと思うんですよ。英検一級の『合格』」と『山に登る』ことの共通点は何か。それは、ある目標を達成する、ということではないんですか」
 「ええ、そのとおりです」
 「じゃ、その共通点についても具体的に書けば文章がわかりやすくなるんじゃないでしょうか」
 なるほど、そうか。自分では、『合格』」と『山に登る』ことの共通点が、ある目標を達成すること、というのは当然と思っていた。しかし、読者にとっては違うのだ。

 このような文章の検討の中で、自分では気づかなかった問題点が指摘され、自分では見えなかった解決策が見えてくる。あたかも自分自身を第三者の目で見ているようで新鮮だ。これが文章演習講座Bクラスの良さだろう。
 常々、先生は『どんどん文章を書いて、授業にもってきてください』、とおっしゃる。先生自身が文章を書くことの大変さを理解していらっしゃるのだ。出席するたびに、よし、また書いてみよう、という気がしてくるクラスである。

7 実質的No.1

 半信半疑で受けた無料体験レッスンから始まり速読フルタイム、文章演習講座Aクラス、Bクラスと私はいわばクリエイトのフルコースを受けたことになる。
世の中には内容に疑問符がつくものであふれている。しかし、クリエイトの料金はこれだけのものを学んだにもかかわらず、そして手に入れたにもかかわらず、全部で20万円になっていないのだ。クリエイトがこれからも速読の実質的No.1、そしてonly1であり続けることは当然なのである。