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知的速読の技術 ―BTRメソッドへの招待―

1 BTRメソッドは最も基礎的な読書の能力を向上させる ―情報処理機能の改善―

頭の中で音読せずにわかるのか?

 たとえばここに、一分間に3000字を読む速読者がいたとします。

 速読を体験したことのない人が常識からしてまず疑問に思うのは、「1分間に3000字なら1秒間に50字、そんなに多くの文字を1秒間に音読できるはずがない。できたとしても、頭の中が早口言葉のようでうるさいではないか」ということでしょう。

 確かに、私たちがふだん読書をしているときのことを考えてみると、黙読とはいっても頭の中で音声となって聞こえている、というのがふつうです。それをやめるのは大変苦しい感じがしますし、仮にそれができたとしても、意味の理解はストップしてしまいます。試しに、音声化をわざとやめてこの本の文字を追ってみれば、そのことはすぐわかります。

 はたして、頭の中で音読せずにわかるのか? というのが、速読の根本に横たわる問題です。

 しかし、私たちは、ここで逆の問題を提起したいと思います。それは「音読しなければわからないのなら、わからないものをなぜ音読できるのか?」ということです。まずは、次の例文を読んでみてください。

 親友は親子より親しい

 「しんゆうはおやこよりしたしい」と読めたはずです。3回使われている「親」という字の読み分けは、なぜできるのでしょうか。

 これは、私たちが意識しない思考の働きで、「親友」「親子」「親しい」のそれぞれを理解し、判断したうえで音声化しているからと考えられます。

 私たちがものを知覚したり、考えたり、あるいは何か動作をしたりするときには、必ず自分には意識されない思考・判断の働きが伴っています。これが゙無意識の働ぎつまり認知機能です。

 「親友は」の「は」が、「ha」ではなく「wa」と自然に読めるのも、同じような無意識の判断の結果です。

 「音声化するからわかる」と思うのは錯覚で、少なくとも語一つひとつは、「見てわかるからこそ、音声化できる」のです。

 しかし、既に書いたように、現に「頭の中での音読をやめるとわからない」のも事実です。この矛盾は、どう説明したらいいのでしょうか。

 私たちは、こう考えます。

 「人間には本来、文字を見ただけでわかる力がある。しかし、一字一字音読することを重視する考え方をされてきたため、自分で音声化した言葉を頭の中で聞いて、話し言葉として理解する習慣になっている。『見てわかる』力は、主として音声化のためだけに使われ、そのあとの理解の働きとしては、使われないので眠ってしまっている」と。

 私たちは、小学校にはいって初めて文字を習うときに、教科書は大きな声を出して読むもの、と教えられます。学年が上がるにつれて黙読ができるようになりますが、文字は音に変えて理解するものという習慣は、頭の中の発音として残ります。

 文字は本来、話し言葉を記録する目的から発生したものですから、それをまた音に変えて理解することは、誰しも当然と思っています。

 しかし、紙に書かれた文字は、話し言葉とはまた違う性質を持っています。先の、「文字・語は、見てわかっているのだ」という見方に立てば、とくに次の二つの性質が重要な意味を持ってきます。

 第一は、話し言葉では、相手の言葉は順に耳に入り、消えていきますが、書かれた言葉は、今読んだ文字もこれから読む文字も、同時に見ることができるということです。

 第二は、それと関連して、たとえば「さくら」という文字は、「sa・ku・ra」と順に発音する以前に、心に「さくら」のイメージを呼び起こしているのではないか、ということです。

 こうした性質があるにもかかわらず、音声化にこだわり、むしろ「音声化さえしていればわかってくる」という甘えがあるために、こうした文書の利点を生かす理解の働きが、発達不十分のままきてしまっているのです。

 つまり、音声化にこだわる習慣のため、

 (1) 同時に見えている多くの文字・語に注意が向かない
 (2) 語が呼び起こすイメージに注意が向かない

 という状態に陥り、それが、本来ならもっと速く、しかもよく理解できるはずの能力の発育をおさえているのではないかというのが、BTRメソッドの出発点です。

周辺の字・語との関係でよりよくわかる

 第一の問題については、まず、次の例文を読み比べてみてください。

 彼はキセルをくわえた………①
 彼はキセルでつかまった……②

 ①の文で「キセル」は喫煙具、②では「無賃乗車」の意味です。

 どちらの文も、頭の中で順に音読し「彼はキセルを(で)」まで読んだ時点で、どちらの意味かと迷うこともなく、すんなりと①では喫煙具、②では無賃乗車のイメージを浮かべて読み進むことができます。

 これは、意識される以前の認知過程の中で、同時に見えている「くわえた」あるいは「つかまった」の意味が理解され、「キセル」の理解を助けているためと考えられます。

 自分でも気づかぬうちに「目にはいっている」文字が、よりよい理解のために影響を与えているということです。

 この例文がもし、電光ニュースのように順に流れて表示されるとしたら、「キセル」まで読んだ時点で、次の言葉が見えてくるまで喫煙具か無賃乗車かの判定がつかずにイライラするはずです。

 しかし、一字一句を音読することにこだわりすぎる読み方は、この電光ニュースと大差ありません。「音読していない文字はわからないのだから、見る必要はない」と思っている限り、周辺の文字は「見れどもみえず」の状態にとどまるからです。

 この状態を改善することが、読書の効率を上げる重要なカギになります。

見た語はイメージを呼び起こす

 音読にこだわりすぎる習慣のもうひとつの問題点は、「音読できればわかっている」という錯覚があることです。

 教室で朗々と教科書を読み上げた生徒に、さぞよく理解できたろうと思って質問をしても、案外何もわかっていないことがあります。

 あるいは、大人でも、義務で読まねばならぬむずかしい本など、「目だけ字面を追っているが(頭の中で音読はしているが)、意味が全然頭にはいってこない」というのは、しばしば経験することです。

 音読ということ自体は、単なる作業にもなりえます。頭の中で聞こえている声が言葉としての意味、イメージを正しく呼び起こしてこそ、「わかる」といえるのです。

 そう考えると、たとえば、「犬」という文字が心に犬のイメージを呼び起こし、あるいは、「恋愛」という文字が、それ自体、やはり一種のイメージを心に沸き立たせる働きがあることに、もっと注目してもいいのでしょうか。

 「マンション」という字面が、見た瞬間、心にマンションのイメージを呼び起こしているのに、わざわざ「ma・n・syo・n」と音に直すまで、そのイメージに注意を向けないとしたら、それはもったいないことです。

BTRメソッドの役割

 BTRメソッドのプログラムは、このように音読→理解の習慣で眠ってしまっている、基本的な読書能力を高めていこうとするものです。

 しかし、私たちは、完全に頭の中の音読をやめてしまえ、というつもりはありません。

 言葉の音を完全に無視することが、必ずしもいいことだとは思いませんし、はたして、それが可能なのかどうかも、私たちにはわかりません。少なくとも、何年、何十年も、音読→理解を習慣にしてきた大人が、それを無理にやめようとすることは大変な苦痛を伴い、労多くして功少なしといえます。

 BTRメソッドでは、それよりもまず、今まで無視されてきた、①より広い範囲の文字と、②語の呼び起こす心の中のイメージ、に対してより注意を向け、その働きを促すような、新しい習慣を形成しようとします。これによって、完全に「見て理解」は無理でも、音声化にこだわらず、より速くよりよい理解が可能になるはずです。

 BTRメソッドは、そのための効果的な訓練を提供しようとするものです。

 これによって開発される能力は、人間本来の読書の働きからして、自然なものです。誰でも生まれつき、文書の利点をもっと生かした読み方のできる能力を持っています。それはただ、音読を重視する習慣で、眠ってしまっているだけなのです。

 ただし、ここで一言、つけ加えておかなければならないのは、本書の主張は、決して朗読教育の否定ではない、ということです。

 自分の読み取ったものを、リズムや音調・語調によって表現しようとする「朗読」は、重要な国語教育です。しかし、それだからこそ、「音読→理解」ではなく、「理解→音読」でなければならないのです。BTRメソッドは、朗読を否定するどころか、よりよい朗読のためにも、有効な訓練となってくるはずです。

 さらにまた、言葉の理解、とくに文学の鑑賞において、リズムや音韻というものが大切な要素であることも、否定するつもりはありません。ただ、そのことを強調しすぎるあまり、忘れ去られてしまっている読書の能力がありはしないか、といいたいのです。

 私たちの願いは、一方に偏らない、より総合的な読書の能力を見につけてもらうことです。

 そうした点をご理解いただいたうえで、以下の節では、具体的に、①広範囲の文字への注意、②イメージ、③実際の速読の過程、そして④能力を開発するメカニズムそのものについて、より詳しく述べたいと思います。

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